2025年12月15日
若くて美しくなければ、女は存在すら許されない?【映画と推し事_Vol.3】
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こんにちは。Winboard編集部員の和田です。
「もう誕生日なんて来ないで欲しいわ(笑)」
「鏡を見るのが嫌になっちゃう!」
「大好きだった大柄の服を選ばなくなった…」
何気なく発せられるセリフの裏に、いつから植え付けられたか分からない、ドス黒い性搾取があるとは誰も気が付かないであろう。
今日は映画『Substance』から、絶対になくならないルッキズムやエイジズム、自己と他者について個人的に書き殴らせていただこう――
映像の“ビジュアル”で殴ってくる
かつて栄華を誇った女優・エリザベス(デミ・ムーア)は50代になり、自分の看板番組だったエアロビ番組を降板させられてしまう。

そんな中、謎の再生医療『サブスタンス』という、より良い自分の“分身”を生み出せる薬品を偶然手に入れる。ただしそこには、母体と分身は7日ごとに交代しなければならない、というルールがあった。
若く美しい自分の分身・スー(マーガレット・クアリー)は、エリザベスの代わりにエアロビ番組の顔となり、テレビ局の会長にも気に入られるが、次第に暴走しはじめ……。

と、この後に起こりうる出来事はこのあらすじから予想できる範囲内に収まる。
だが、それを彩るビジュアルと構図、そしてラストの“阿鼻叫喚”シークエンスは、想像のはるか上を行く。
これぞまさにカルト映画。2020年代のカルト代表作とついに出会った、と筆者は興奮した。
テレビ局の赤い廊下:スタンリー・キューブリックの『シャイニング』に登場するホテルの廊下を思わせる廊下は、まるで“産道”。血のように赤く塗られたその空間は、新たな地獄の入り口/出口と化している。
黄色いコート:物語全体の中もひときわ目立つエリザベスの黄色いコート。この社会から排除される存在の“警告色”として機能している。

横たわる裸体たち:スーの若さは、エリザベスが居なければ維持できない。“美しさ”とは、自分自身をすり減らして得る、限りあるエネルギーなのだ。そして、それを供給するために、女たちの裸の身体はまるで無機質な“補給装置”のように無造作に横たえられる。
キューブリック的な計算された構図と、クローネンバーグ的なボディホラーを継承しながら、それらを美醜というテーマとここまで上手くリンクさせた映画は、他に例がないだろう。
エビを手で食べる会長
序盤、テレビ局の会長がエリザベスにクビを言い渡しながら、エビを手づかみでむさぼる異様なシーンがある。
それは、若さや美しさを「資源」として貪る者たちの象徴だ。
丁寧に調理された料理ではなく、優雅な会食でもない。ただの“捕食”。
捕食後に残るのは空っぽになったエビの抜け殻だけ――まるで、若さや美しさを搾取された後の女のように。
デート前に増幅する醜形恐怖
個人的に最も胸が詰まったのは、エリザベスが偶然再会した同級生とのデートの準備をするシーン。
スーの看板と、鏡の中に映る自分を見比べてしまい、何度もメイクをやり直す。
露出していた肌をストールで隠したり、時計を見ながら行ったり来たりして、結局デートに行けなくなってしまい、過食に走ってしまう。

現代では、美容系YouTuberのメイク動画を観ながらメイクをし、スマホの中のかわいい女の子と鏡の中の自分を見比べて、メイクを施してもなお醜いままの自分を呪う女性が何人いるだろうか。
そしてそのデート後にコスメを大量に購入したり、美容整形のSNSを掘り起こしたりするのであろう。そうした自己嫌悪ゆえの過食もリアルである。
“時代”が無いからこそ普遍性が際立つ
作中にはスマホは出てくるが、SNSは登場しない。
スーが年越し番組の司会を務めるくだりも、一体何年の年越しなのかは語られない。

このように時代設定を曖昧にすることで、本作は「これは今に始まった話ではない」ということを観客に印象付ける。
ルッキズムやエイジズムという言葉が生まれる前から、女性たちは“若さ”と“美しさ”によって価値を測られ、消費されてきた。『サブスタンス』は、その根深い暴力に対して、時代を超えて痛烈な批判を叩きつける。
なぜデミ・ムーアはアカデミー主演女優賞を取れなかったのか?
『サブスタンス』でデミ・ムーアが見せた演技は、単なる“カムバック”ではなかった。
それは「過去に消費されたスターが、その構造を批判する存在として蘇る」という現実と虚構の融合だった。
若さと美しさと愛を渇望する中年の女優を演じることで、自身のキャリアを鏡に映し出した。その姿は痛々しくも切実で、時に滑稽で、しかし限りなく真実に近かく、ヌードや異形の姿も惜しみなく見せ、体当たりとしか言いようがない演技を見せている。

にもかかわらず、彼女はアカデミー主演女優賞を逃し、『アノーラ』の若く美しいマイキー・マディソンが受賞した。
それは、この映画が告発している構造が現在進行形であることを象徴していると言えるのではないだろうか。
何たる皮肉!!
おわりに:これは警告であり、鎮魂であり、叫びだ
『サブスタンス』は、暴力的なまでに美しい映像とショッキングな展開の中で、ショービジネス界、そしてこの社会全体における“女性搾取の構造”を何一つ隠すことなく描いている。
これは中年女性が欲望のままに美しさを取り戻そうとする悲劇の物語なんかじゃない。
“女性は若さと美しさを失った瞬間に人間とすら認められなくなる”という、この社会の異常性を暴く物語だ。
最後の血の一滴まで、この映画はその異常性を観客に見せつけてくれているのではないだろうか。


